氷河・氷床変動の物理メカニズム:質量収支、流動、そして気候システムとの相互作用
はじめに
地球上の淡水資源の大部分は氷河や氷床として存在しており、その動態は海面水位変動に直接的な影響を与えています。特にグリーンランド氷床や南極氷床のような巨大な氷床は、地球全体の気候システムとも複雑に関係しており、その変動メカニズムの理解は地球環境科学における重要な課題です。本記事では、氷河および氷床がどのように変動するのか、その物理的なメカニズム、関連する物理法則、そして気候システムとの相互作用について、科学的な視点から解説します。
氷河・氷床の構造と物理的性質
氷河や氷床は、長年にわたり降り積もった雪が自重で圧縮され、氷に変化(氷河化)して形成された巨大な氷の塊です。谷氷河のように山岳地帯の谷を流れるものや、大陸氷床のように広大な大陸を覆うものがあります。また、陸上の氷床が海に張り出した部分は棚氷と呼ばれます。
氷は、特定の条件下では固体として振る舞いますが、応力が加わると非常にゆっくりと変形する粘弾性体としての性質も持ち合わせています。特に、氷の温度が融点に近い場合や、加わる応力が大きい場合には、この粘性的な流動(クリープ)が顕著になります。この氷自体の変形と、氷の底部と岩盤との間のすべり(基底すべり)が、氷河・氷床の主要な流動メカニズムです。
氷河・氷床変動の物理メカニズム
氷河・氷床の変動は、主に以下の物理プロセスによって制御されます。
質量収支
氷河・氷床の体積変化は、質量収支、すなわち氷の増加(涵養)と減少(消耗、アブレーション)のバランスによって決定されます。 涵養は主に積雪によって起こり、特に標高の高い地域や緯度の高い地域で顕著です。消耗は、融解、昇華、そして氷河末端からの氷塊の分離(Calving)によって発生します。融解は気温や日射量、雪や氷の表面状態(アルベド)に依存し、棚氷や氷河末端におけるCalvingは、氷の物理的な強度、水深、海洋との相互作用(融解、波浪)、棚氷上の融解水プールの形成など、多様な要因によって影響を受けます。
気候変動による気温上昇は、消耗域の拡大や融解量の増加をもたらし、質量収支を負の方向へ変化させる主要因の一つです。
氷流動(内部変形と基底すべり)
氷河や氷床は、その重力によって斜面を下るように、あるいは中心部から周辺部へと流動します。この流動は、主に氷の内部クリープと基底すべりの組み合わせです。
- 内部クリープ: 氷は固体ですが、長時間にわたり応力を受けると塑性変形します。この変形は、氷結晶の再配向や転位の運動によって起こり、応力と歪み速度の間には非線形の関係があります。これを記述する代表的な constitutive law に、Norton-Hoff則(またはGlen's Flow Law)があります。氷の温度が高い(融点に近い)ほど、また水分の存在によって、変形速度は増加します。
- 基底すべり: 氷の底部と下の岩盤または堆積物との間に水が存在する場合、氷がその水の上をすべりながら流動することがあります。この基底水の量は、表面からの融解水がクレバスなどを通って底に到達する場合や、地熱や摩擦熱による底面融解によって増減し、すべりの速度に大きな影響を与えます。基底すべりは、特に氷河や氷床の流れが速い地域で重要な流動メカニズムとなります。
これらの流動メカニズムは相互に関連しています。例えば、表面融解水の増加は基底水の量を増やし、基底すべりを加速させることで、氷河全体の流動速度を増大させる可能性があります。
熱プロセス
氷河・氷床内の温度分布は、氷の粘性や融解プロセスに大きく影響するため重要です。氷内の熱は、地熱、表面からの太陽放射吸収、氷流動による摩擦熱などによって供給されます。温度が融点に達すると、氷は融解し、これが基底すべりや内部変形に影響を与えます。氷は圧力によって融点がわずかに低下するため、分厚い氷床の底部では圧力が高いため、氷点下であっても融解水が存在することがあります(圧力融点降下)。
気候システムとの相互作用
氷河・氷床は単に気候変動の受動的な指標であるだけでなく、気候システム自体にも能動的に影響を与えています。 例えば、広大な氷床表面は高いアルベドを持ち、太陽放射を効率よく反射するため、地球全体のエネルギー収支に寄与しています。氷床が縮小すると、アルベドが低下してより多くの太陽放射が吸収され、温暖化を加速させるという正のフィードバック機構が働きます。 また、棚氷からの大量の融解水やCalvingによって生成される氷山は、海洋表層水の塩分濃度や温度を変化させ、海洋循環、特に深層循環(熱塩循環)に影響を与える可能性があります。これは地球全体での熱や物質の輸送パターンを変化させ、気候システムに広範囲な影響を及ぼすことが示唆されています。
観測と研究の進展
氷河・氷床の変動研究は、衛星リモートセンシング技術の発展により大きく進展しています。レーダー干渉法(InSAR)を用いた表面速度の精密な測定、レーザー高度計やレーダー高度計による表面高度変化の計測、重力回復衛星(GRACE、GRACE-FO)による質量変化の推定などが、広大な領域を網羅的に観測することを可能にしています。 これらの観測データと、氷の物理プロセスを表現する数理モデル(氷河モデル)を用いた数値シミュレーションを組み合わせることで、氷河・氷床の現在の状態と将来予測に関する理解が深まっています。例えば、グリーンランドや西南極氷床における氷の流出加速メカニズムや、沿岸部における棚氷の不安定性が、海面上昇予測における重要な不確実性の要因として認識されています。
まとめ
氷河・氷床の変動は、積雪や融解による質量収支の変化、氷の粘性流動や基底すべりといった物理プロセス、そして気候システムとの複雑な相互作用によって引き起こされます。これらの変動は、地球上の淡水資源、海面水位、さらには地球全体の気候循環に大きな影響を与えるため、そのメカニズムを深く理解することは極めて重要です。衛星観測技術の進歩や高度な数値モデリングにより、氷河・氷床研究は目覚ましい発展を遂げており、今後も更なる科学的解明が期待されています。