熱塩循環のメカニズム:密度流と地球規模の海洋物質輸送
熱塩循環とは
地球の海洋における大規模な海流システムの一つに、熱塩循環(Thermohaline Circulation)があります。これは、海水温(熱)と塩分濃度(塩)の違いによって生じる海水の密度差を駆動力とする海洋循環です。表面海流が主に風によって駆動されるのに対し、熱塩循環は深層における海水の動きを特徴とし、地球規模での熱、塩分、炭素、栄養塩などの物質輸送に重要な役割を果たしています。この循環は、海洋の深層全体に及ぶため、一般に数百年から千年の時間スケールでゆっくりと進行します。
熱塩循環の基本的な駆動原理
熱塩循環の根源的な駆動力は、海水の密度差です。海水の密度は、温度が低いほど大きく、塩分濃度が高いほど大きくなります。
- 温度の影響: 海水は冷やされると収縮し、密度が増加します。特に極域のような寒冷な海域では、海水が大幅に冷却されることで密度が非常に高くなります。
- 塩分の影響: 海水が蒸発すると、水(H₂O)のみが気体となるため、残された海水の塩分濃度が高まります。また、海氷が形成される際も、純粋な水が凍るため、周囲の海水の塩分が押し出され、塩分濃度が高まります(ブライン排除)。塩分濃度が高い海水は密度が増加します。
これらの要因により、表層の海水の一部が周辺の海水よりも十分に密度が高くなると、その海水は重力によって沈み込みを開始します。この沈み込みが、深層海流の始まりとなります。
深層水の形成と沈み込み域
高密度な海水が深層に沈み込む現象は、「深層水形成」と呼ばれます。深層水形成が活発に行われる主な海域は、北大西洋のグリーンランド海やノルウェー海、および南極海周辺です。
- 北大西洋: 北大西洋では、暖流である北大西洋海流が北上し、高緯度で冷却されます。また、冬期には強い季節風による冷却と蒸発が促進されます。これにより海水温が低下し、塩分濃度が比較的維持されるため、密度が増加して沈み込みが発生します。この領域で形成される深層水は、北大西洋深層水(North Atlantic Deep Water: NADW)と呼ばれ、世界の海洋深層を循環する主要な水の塊です。
- 南極海: 南極大陸周辺、特にウェッデル海やロス海では、冬期に大量の海氷が形成されます。この際にブライン排除により周囲の海水の塩分濃度が著しく高まり、極端に冷たい海水が生成されます。この高密度な海水が沈み込み、南極底層水(Antarctic Bottom Water: AABW)となります。AABWはNADWよりもさらに密度が高く、海洋の最も深い部分を流れることが多いです。
これらの沈み込み域から始まった深層海流は、海洋底に沿って低緯度へと非常にゆっくりと広がっていきます。
地球規模のベルトコンベア(海洋大循環)
北大西洋と南極海で形成された深層水は、数百年から千年以上の時間をかけて世界の海洋を巡ります。この深層での流れと、表層での流れ、そして湧昇域(深層水が再び表層に上昇する場所)が一体となった地球規模の海洋循環システムは、しばしば「海洋大循環ベルトコンベア」と喩えられます。
深層水が長い旅を終えて再び表層に戻ってくる湧昇は、主に太平洋やインド洋の一部、または南極海周辺で起こると考えられています。しかし、深層水がどのように表層に戻るのかについては、依然として研究が続けられている複雑な課題です。最近の研究では、海山や海底地形との相互作用、内部波による混合、そして風成循環との複雑なフィードバックなどが湧昇に関与していることが示唆されています。例えば、数値モデルシミュレーションや Argoフロートなどの観測データ解析により、特定の海域における乱流混合が深層水の湧昇に寄与するメカニズムが詳細に解析されています。
物質・熱輸送における役割
熱塩循環は、地球の気候システムにおいて極めて重要な役割を担っています。
- 熱輸送: 低緯度で吸収された太陽熱が、熱塩循環によって高緯度へと運ばれます。特に北大西洋では、熱塩循環の一部である大西洋南北熱塩循環(Atlantic Meridional Overturning Circulation: AMOC)が大量の熱を北欧方面へ輸送しており、この地域の比較的温暖な気候に寄与していると考えられています。
- 炭素循環: 大気中の二酸化炭素は海洋表層に吸収され、その後、熱塩循環によって深層へと運ばれ貯蔵されます。これにより、海洋は地球上の炭素循環における最大の貯蔵庫の一つとなっています。深層に運ばれた炭素は、数百年から千年にわたって大気から隔離されるため、熱塩循環は地球規模の炭素収支や気候変動の調節に重要な役割を果たしています。
- 栄養塩輸送: 海洋生態系を支える植物プランクトンに必要な栄養塩は、深層に豊富に存在することが多いです。熱塩循環による湧昇は、これらの栄養塩を表層に供給し、生産性の高い海域を作り出すのに貢献します。
観測と研究の現状
熱塩循環の全貌を把握することは容易ではありません。これは、循環が非常にゆっくりであり、海洋の広範囲かつ深層で起こるためです。観測手法としては、係留されたセンサーによる流速・水温・塩分観測、研究船による断面観測、衛星による海面高度・水温観測などが用いられます。近年では、Argoフロートと呼ばれる自動観測装置が世界中の海洋を漂流・潜航し、水温・塩分プロファイルをリアルタイムで取得しており、熱塩循環研究に大きく貢献しています。また、海洋循環モデルを用いたシミュレーション研究も、循環メカニズムの解明や将来予測に不可欠な手法となっています。
最新の研究では、地球温暖化が熱塩循環、特にAMOCに与える影響に関心が集まっています。グリーンランド氷床の融解などにより北大西洋の表層海水の塩分濃度が低下すると、沈み込みが弱まる可能性が指摘されています。気候モデルを用いた研究の多くは、将来的にAMOCが弱まる可能性を示唆しており、これが北米やヨーロッパの気候に影響を与えることが懸念されています。ただし、その具体的な影響の度合いやタイミングについては、引き続き研究が進められています。
まとめ
熱塩循環は、海水の密度差によって駆動される地球規模の深層海洋循環であり、地球の気候システムにおいて熱、炭素、栄養塩などの物質輸送に不可欠な役割を果たしています。極域での深層水形成から始まり、数百年をかけて世界の海洋を巡るこの巨大な流れは、地球の環境システムを理解する上で非常に重要な要素です。その複雑なメカニズムの完全な解明と、気候変動による影響評価は、今後の科学研究における重要な課題であり続けています。